2012年10月26日金曜日

10/26 Today 安重根が伊藤博文を暗殺 (1909)

韓国総監として韓国植民地支配を進めていた伊藤博文が暗殺された。暗殺したのは安重根という人物:
安重根 - Wikipedia: 1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤ ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大きく叫んだ。

国により評価が分かれ日本ではあまり知られていない人物でもある。しかし彼が検察官に述べたという暗殺の動機には、いろいろ否定しがたい事実があることは認めなければならない。曰く:

  • 一、今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
  • 二、今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
  • 三、今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
  • 四、伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
  • 五、韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
  • 六、条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
  • 七、韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
  • 八、韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。
  • 九、 韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。
  • 十、 ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。
  • 十一、韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。
  • 十二、伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。
  • 十三、韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。
  • 十四、今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
  • 十五、伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。

両班出身のインテリ。目白台の永青文庫 〔細川家宝物所蔵館〕で安重根の書を見たことがあるが、立派なものであった。なぜ細川家が安重根の書を保存しているのかは不明。名門細川家は足軽出身の伊藤博文なんかには遠慮しなかったのかも知れない。

2012年10月19日金曜日

10/19 Today ザマの戦い(BC202)……小回りの利かない巨象軍団は役に立たなかった

常勝ハンニバルもこの戦いで遂に敗れ、カルタゴの命運が決まった:
ザマの戦い - Wikipedia: "ザマの戦い(ザマのたたかい)は、紀元前202年10月19日に北アフリカのザマで起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。大スキピオ率いるローマ軍がハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争の趨勢を決した。"
ハンニバルは得意の象軍団(戦象)の突撃戦法をとるが、ローマ軍はすでに対処の仕方を知っていた。

両軍の配置の時系列:





ローマ軍の指揮官大スキピオはローマ軍を隙間を空けて配置する。戦象は前に進むだけなので、やって来たら横に避ければいいだけということがわかっていたのだ。カルタゴ軍は機動力のある騎兵軍団に後方を衝かれ、完全に包囲殲滅された。

「大艦巨砲時代」は紀元前3世紀にして、すでに終わっていたのである。


さて、戦後処理だが次のようなものだった:

ザマの戦いに敗れたカルタゴは、スキピオに講和を申し入れた。ローマの全権代表であるスキピオは10項からなる講和条約を提示した。以下、特に重要と思われるものだけをあげる。
  • カルタゴはローマの承諾なしには戦争を行わない。(これで実質のカルタゴは完全な自治国家とはいえなくなった)
  • 軍船は10隻を除き全てローマに引き渡す。
カルタゴは条約を受け入れた。これによって、カルタゴは海外領土および海軍力をほぼ喪失し、ローマの地中海における覇権が確立することとなった。
なんかどっかの国の無条件降伏と似ているが、ローマはこれでカルタゴを「いつでも滅ぼせる」という生殺与奪権を握ることとなる。 こういう条件を呑まされた以上、カルタゴ・ナショナリズムは自殺行為以外の何者でもなくなってしまう。現にカルタゴはその後、現実を直視出来ない連中のへんなプライドのおかげで自滅し〔第三次ポエニ戦争〕民族は物理的に歴史から消滅してしまう。

2012年10月15日月曜日

10/15 Today アメリカがキューバを海上封鎖、キューバ危機の始まり(1962)

一つ間違えば第三次世界大戦が勃発するという極めて危険な状況であった。当時の日本に於いても終日終夜この状況に関する臨時ニュースがラジオで流された。ミサイルを搭載したソ連船はキューバの港を直前にして、入港をせず停船し、更に引き返したと報じられたのは、明け方近くになってからのことであった。朝までトランジスターラジオの前にかじりついていた僕らは、みんな徹夜明けの赤い眼を擦りながら、それでも戦争は回避されたと安堵しながら、翌朝学校に行ったものである。

キューバ危機 - Wikipedia: 1962年10月14日にアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル (MRBM) の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル (IRBM) を発見した。
これに対してアメリカ政府は激烈な反応を示し、ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとした(これに対してソ連船は海上封鎖を突破することはせず、また臨検を受けることをよしとせず引き返した)。


アメリカ〔ケネディー〕があれほどまでに強気に出られたのは、あくまでもアメリカの強大な軍事力の存在があった。当時のソ連の軍事力では戦争を始めてアメリカを部分的に攻撃し破壊することは可能であったが、アメリカを全面的に壊滅させることは到底不可能であったのだ。一方で当時のアメリカにはソ連を全面的に壊滅させるだけの核軍事力があった。フルシチョフは冷徹な判断が出来るまともな人間であったので、ここでキューバのカストロと心中する覚悟でアメリカを事を構えてもなんら得することはないとの冷静な判断が出来たのである。ソ連に見捨てられたカストロは激怒したが所詮ごまめの歯ぎしりに過ぎなかった。

同時にフルシチョフはソ連国内を完全に掌握している自信があったので、国内の好戦的なウヨ・ポピュリズム感情は無視することが出来た。文句を言う輩はシベリア流刑にすればよかったのだ。国内政治で強力な政治家であることではじめて国際関係で譲歩が出来るのである。

ひるがえって現在の極東の情勢を考えると、こういった理性的な交渉事がとても出来る状況にない。衆愚的なポピュリズムと感情論にあまりに振り回される政治構造が定着してしまっている。戦略的にはまるで意味もない小さな岩礁の帰趨を巡り、国民感情と面子だけで物事が進んでしまうのだ。この舞い上がった国民感情を押さえ、バランスを取り冷静化させるメカニズムは、宗教コミュニティー規範が本来的に欠如するアジア的生産様式文化圏においては、とても脆弱である。市民運動とやらのオルターナティブ規範も簡単には出来上がらないだろう。地球上でこれだけ多くのつまらない領土紛争がある地域は東アジアだけである。おまけに領土問題以外でも、政治がこの国民的感情論に振り回される状況が続いている。悲観的にならざるを得ない。

2012年10月14日日曜日

10/14 Today ノルマン・コンクエスト ヘイスティングズの戦い( 1066)

ノルマン・コンクエストThe Norman Conquest of England)は、ノルマンディーギヨーム2世によるイングランドの征服。ヘイスティングズの戦いでイングランドの国王ハロルド2世は戦死。フランスのノルマンディー地方に住み着いてフランス語を話すようになっていたヴァイキング(ノルマン人)がイングランドを征服した。イギリスはこのときからしばらく、フランス語を公式言語として使用することとなる。被征服民族サクソン人は豚(サクソン語で pig)を飼い、征服者のノルマン貴族は食卓で豚〔フランス語で pork)を食べることになった。同じ豚でも、サクソン人が豚小屋で飼っているうちは pig と呼ばれ、ノルマン人が食卓で食する段階になると pork と呼ばれたのである。屈辱的だが、王様が戦で死んでしまったからには、仕方がなかった。でもこのことは、英語の語彙を極めて複雑で豊富なものにし、膨大なシェークスピア戯曲を生むことにも繋がった。人間すべて塞翁が馬なのである。
ヘイスティングズの戦い - Wikipedia: 決戦は10月14日朝に始まった。ノルマン軍は短弓やクロスボウを装備した弓兵に援護させながらの騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍は長大な戦斧を装備した重装歩兵による密集陣形でこれに応じ、昼までに戦闘は膠着状態に陥った。この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。

『アイバンホー』を読むとノルマン征服後のサクソン人の暮らしがどんなだったかわかる。貧乏だったが一応サクソン貴族も存続は許されていた。ユダヤ人たちが虐められていたのも分かる。閉鎖社会がグローバル化する過程においては、いろいろ摩擦も生じる。しかし時間が経つにつれ、人々は現実対応で折り合いを見つけ出してゆく。

2012年10月2日火曜日

10/2 Today リットン調査団報告書発表(1932)

満州をめぐる紛争を調査するため国際連盟から派遣されたリットン調査団が最終報告書を発表した日:
リットン調査団 - Wikipedia :"調査団はまっすぐ満洲入りするのではなく、日本、中華民国(上海南京北京)の視察も行っている。日本では荒木陸相、中華民国では蒋介石汪兆銘張学良、満洲国では当時「執政」の座にあった溥儀と会談している。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見も試みたが、日本側の反対に会い実現できなかった。調査団の視察は1932年6月に完了。8月より北京で調査報告書の作成を開始し、10月2日、報告書を公表した。"


報告書の内容は、日本の満州における権益を維持するものであり、 実質的に日本には損のない内容。ところが「満州国」が認められなかったことで日本はこれに反発し、国際連盟を脱退。その後の展開は皆の知るところ。「名を捨て実を取る」と言うことを知らなかった。

硬直的な官僚的思考および国民の「空気」とやらに流され、健全な常識を失うと、常にこういうことになる。

2012年10月1日月曜日

10/1 Today 東海道新幹線の開通(1964)

日本人があれだけ誇りを持てた時はあまりなかったのではなかろうか。世の中、高度成長期の真っ直中、東京オリンピックも開催される、それに合わせていよいよ世界最初の新幹線が開通した。

東海道新幹線 - Wikipedia: 世界初、日本初の高速鉄道であり、日本国内の新幹線としては最古の歴史を持つ。
輸送力が限界に達していた東海道本線の混雑を解消するため、根本的対策としての別線増設という形で1959年(昭和34年)4月20日に十河信二国鉄総裁と技師長の島秀雄の下、高速化が図れる標準軌新線[1]として着工され、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した[2]。

 新幹線は世の中を確実に変化させた。なによりもみんな勤勉に働くようになった。なにせ以前は東京・大阪間の出張は一泊するが前提であったのに、新幹線のおかげで日帰りすら可能になったのだから。「昔は仕事を適当に済ませてから帰りを気にせず宿の近くの呑み屋に飲みに行くのが楽しみだったのに新幹線のおかげで出来なくなってしまった」とぼやく輩もいたが、そんな声はもちろん無視された。みんな希望に満ちていた。

安倍新自民党総裁は「若者が誇りを持てる日本にしたい」とのことらしいが、そのためには気持ちが悪い「美しい国」などやらにするよりは、なによりも経済発展と技術革新が可能な国にするべきである。「清貧趣味」は年寄りだけで十分だ。